照来(てらぎ)高原
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「日本のブランド牛のみなもと」
 松阪牛、前沢牛、米沢牛、飛騨牛、佐賀牛をはじめ、
 日本で生産される黒毛和牛の98%のルーツといわれている但馬牛ですが、
 そのブランドと品質はどのように生まれ、維持されてきたのでしょうか。
子牛 但馬牛の肉質は「サシ」の入り方が絶品といわれています。サシとは筋肉に入り込んだモザイク状脂肪のことで、但馬牛の場合は、鮮紅色の筋肉繊維の中に細かなサシが大理石状に交雑しており、一般的には「霜降り肉」と呼ばれています。熱を加えると、サシが溶けて周りの筋肉を柔らかくするため、舌触りがよく、深い味わいがあります。しかし「サシ」はあくまで但馬牛の特徴の一つにすぎません。但馬牛の特徴は、旨み、肉独特の臭みがないこと、サシの融点が低いことであり、炭水化物などを無理やり肥育した「偽り」のサシとは大きく違います。輸入牛のサシの融点がおよそ50℃であるのに対し、但馬牛の肉では40℃。この融点の低さが口に入れたときのまろやかさにつながっているのです。

但馬牛の子牛は、肥育素牛として生後8~10ヶ月齢で県内外の各地に売られていきます。その後、それぞれの地域で肥育され、その土地の牛として出荷され食肉に供されます。上質の牛肉の産地として知られる神戸、三田、松阪などで肥育されている素牛の多くは、実は但馬の畜産農家で生産された但馬牛なのです。 このように、但馬牛が肉牛の素牛として、種雄牛、母牛として全国各地で高く評価されているのは、但馬のすばらしい風土で二百年にもわたって営々と創り上げられた「蔓(つる)牛」という優秀な系統牛の血を受け継いでいるからです。

兵庫県美方郡の飼育農家は、現在も「閉鎖飼育」の伝統を守り、世界に名だたたる但馬牛の「本当の血統」を綿々と守り続けております。経済性を省みず、流されず、決して妥協しない強い意志と、伝統を守る継続力には敬意を払わずにはおれません。
「但馬牛のブランドは、100年以上も但馬の畜産家が
         愛情をかけて牛を育てた賜(たまもの)」
牧場 ●なぜこの地に但馬牛が育ったのか

但馬地方は、山々に恵まれ、豊かな野草が生い茂り、和牛の飼育に適していました。その上、険しい山と谷に囲まれた土地では、峠を越えて牛を交配させることは非常に困難でした。そこで、その谷あいの中だけでの牛の交配が続けられました。いわゆる「閉鎖育種」というもので、限られた地域内で優良な牛の遺伝子を効率的に活用し、資質改良を図る方法です。閉鎖育種によって改良が重ねられた但馬牛は、その素晴らしい特徴がより強固なものとなっています。

現在「閉鎖育種」が行われている照来高原のある新温泉町と香美町にまたがる地域は、平地が少なく、険しい地形で寸断され、その地形要因と冬の豪雪のために、生活文化を周辺地域から遮断され、外部から新しい生活環境や産業を、最後まで拒む天然の要塞でした。しかも、日本海に比較的近く、塩分を多く含んだ強い北風が雪解けて大地に染み込み、牛たちはミネラルの多い水で育てられた牧草をたっぷり与えられて育ちました(十分な塩分は牛の生体にとっては欠かせない要素です)。さらに、夏は昼と夜の気温差が大きくて夜露が降りるために、軟らかい牧草に恵まれ、山草には肉牛が育つのに必要な薬草が含まれています。これが但馬牛の原種が奇跡的に生き延びた最大の理由です。
さし ●「サシ(霜降り)」のヒミツ

日本のブランド牛の特徴である「サシ」、いまや日本のブランド牛を表す言葉ですが、ほとんどの霜降り牛のルーツをたどれば、その発端に但馬牛が存在しているのです。サシの入った肉は、いわゆる「霜降り肉」といわれます。まろやかな風味と、融点の低いとろけるような霜降りを実現している但馬牛ですが、これはなにも自然発生的に出来たのではありません。古くから日本に生息していた黒毛和牛の中で、生物学上、どうして但馬牛だけに「サシ」が入ったのでしょうか。

但馬牛にはいくつかの特徴があります(ありました)。「体毛が柔らかい、小柄、頑丈」などです。体格が小柄なのは「食肉」としては決して好ましいことではありません。肉食の習慣のなかった江戸時代以前では、牛を険しく狭い農耕地の重要な労働力としていました。但馬は平地が少なく、狭い棚田(たなだ)で小回り良く働けるよう、小柄で体が引き締まった但馬牛が活躍しました。狭く小さな田んぼで仕事をさせるには大きな牛では都合が悪く、より小さな牛を選抜・淘汰してきました。同じ動物なら筋繊維の数も同じであり、体が小さく締まりがよいほど筋繊維も細かくなります。労働に駆りたてられた小柄で骨の細い但馬牛は、細かな筋繊維の隙間にエネルギーとなる脂肪を蓄え始めました。これがまれに見る霜降り肉の誕生の理由です。不思議なことですが、食肉として利用するのではなく、働かせるために改良、効率化させた結果として「霜降り肉」が出来たのです。

ある疑問がわいてきます。
国牛十図 ●日本では古くから牛を農耕に利用していました。但馬のような狭い農耕地で重労働させられていた同種の黒毛和牛は日本全国にいたでしょう。但馬だけ特別なのでしょうか。

そこには、但馬牛のもう一つの特徴である「柔らかい体毛」に秘密が隠されています。

今から約1,200年前に編纂された『続日本記』(797年平安時代初期)

「但馬牛、耕耘、輓用、食用に適す。但馬は古来牛を愛育し、良畜を産す」

と書かれ、約 700年前の『国牛十図』(鎌倉時代)には

「骨ほそく宍かたく 皮うすく腰背まろし 角つめことにかたくはなの孔ひろし 逸物おほし」

と記述されています。奈良時代や鎌倉時代から、但馬牛が今と同じ特徴があり、「逸物おほし」と書かれているとおり、ほかの地域の牛を「但馬牛」と偽って売買する者がいたことがうかがえます。同じ兵庫県の丹波牛や淡路牛と比べても、但馬牛をべた褒めしています。また、中世では豊臣秀吉が大阪城築城の際に全国から牛を徴発しましたが、但馬牛の役能力を最優秀と認め、特権を与えたとされています。但馬牛は当時から「高く売れた」のです。つまり、但馬牛にはブランドがすでに確立されており市場性があったので、純血種を保存し、牛の改良をする理由があったのです、世界的にも例がないことですが、純血種の保存と改良が何百年も綿々と続いていたのです。一年に一度生まれる子牛は但馬の農家の経済に大きな恩恵をもたらす宝であり、母屋玄関横のマヤ(牛の住処)で家族同様大切に飼育され、競り市で高値で売れるために毎日ブラッシングをしてきました。体毛が柔らかく艶やかになったのはそのためです。それから、神戸牛、松阪牛など、但馬牛を素牛としている食肉市場が近代になって形成され、但馬牛の市場価値は絶対的なものとなりました。
「奇跡が起きた、蔓(つる)牛の誕生」
       ※蔓(つる)とは「綿々と続いていくもの」の意味
但馬牛物語 但馬地方の渓谷を中心に飼育されてきた優秀牛の系統を「蔓(つる)牛」と言い、現在では3系統のみ100年以上の歴史を経て残っています。

・あつたづる・・旧美方郡美方町小代(香美町)
・ふきづる・・・・旧美方郡温泉町照来地区(新温泉町)
・よしづる・・・・旧城崎郡香住町(香美町)

前田周助(1798-1872)は、同じ美方郡の美方町小代に農家の長男として生まれ、成長するにつれてますます牛を愛し、鑑識眼に優れていました。良牛小代牛の血統を固定するために、100年に1頭の良牛といわれた美方郡村岡町の雌牛を手に入れました。飼料の吟味から一切の手入れ、繁殖に力を注ぎ、年々良い子牛が産まれるようになり、周助の生み出した牛は「周助蔓」といわれ、今の「但馬牛」の系統の基礎となりました。

万延元年(1860)年ごろに照来にやってきた「周助蔓」の十代目にあたる優れた母牛が大正14年、照来7つの村の一つ“中辻村”の西よねさん方に生まれました。ふきが3歳とのき、丹土村の中井利造さんが買い取り愛育、4歳で初産をしてから14年間にメス七頭、オス4頭を生み、その子孫である雄牛「李中」は但馬牛の名牛の系統を作りました。肉の品質を落とすことなく、大型化にも成功しました。この純血種が松阪牛、前沢牛、米沢牛、佐賀牛をはじめ、日本で生産される黒毛和牛の98%のルーツといわれております。日本のほとんどの原産地ブランドや伝統が明確な定義が難しくなっているにもかかわらず、ブランドと品質、その血統および生産地のさまざまな条件など、但馬牛ほど、明らかに原産地とその特性が判明されているものも珍しいといえます。
「反抗してでも但馬牛を守り抜く」
牛絵 但馬牛の血統管理の歴史は波乱の連続であり、それは政府や県のすすめる同化政策との戦いでした。
明治18年に但馬牛家畜商同業組合が温泉町湯村に設立された際に、副幹事となった旗谷与三郎氏は、紀泉の牛商が、但馬地方が消費地から遠いのでより近いところで牛市を移そうとした際に、風土、気候の牛畜に及ぼす感作をいうや美方郡各渓谷を挙げ、一水一石善く此れを暗証し「但馬は牛畜の大学校なり」と語ったという伝記があります。その後も政府や県の同化政策や品種改良の要請を断り、郡外の血統のものは血統書に「非美方」の印を押した時期もありました。

明治時代に日本政府はイギリス原産の短角種デボン種、スイス原産のブラウンスイス種の種雄牛などの外国種との雑種生産と日本産黒毛和牛の交配に取り組みました。明治中期には、農商務省および兵庫県により、但馬牛をより肉付きのよい外国種(ブラウン種)と交配させる試みが行われました。これに対し、但馬の多くの農家が国や兵庫県の方針に従いましたが、伝統の「蔓(つる)牛」を受け継ぐ照来高原のある美方郡の農家はかたくなにこれを拒否しました。外国種との雑種となった但馬牛は、泌乳能力が高く優れた点もありましたが、肉質が劣悪化し、使役能力も低下した(このほか但馬牛として好ましくない形質(毛色・角・蹄・舌などの白色化、骨太など)が現れたことから雑種生産を打ち切り、外国種の血統の入った牛の排除(淘汰)に努めました。そしてその反省をもとに、美方郡の但馬牛の血統の登録と固定化を進め「蔓(つる)」と称される系統の維持に努めました。
「トレサビリティの先駆け」
牛系譜 但馬牛に関しては、そのルーツを記述した文献が多く残されており、牛籍、科学的根拠、地理的区分が各年代において細かく残されております。その中でも、但馬牛の中心地である美方郡農家の徹底した牛の血統管理は、知財保護(トレサビリティ)の先駆けといえます。

現在の新温泉町および香美町にまたがる美方郡一体は、現在の但馬牛のルーツである蔓牛の閉鎖育種を永年守っている地域です。優秀な品種を維持するためには、他の地域の牛と血が混じらないよう管理することが大切ですが、その基礎となるのが、但馬地方で明治31(1898)年に始まる「牛籍簿」の作成でした。これは、全国でも早い時期に作られたため、現在では15世代前までさか遡って系図をたどることができ、牛1頭ごとに生年月日や親の名を記し、よい血統だけを選別することが可能になりました。

但馬牛のふるさと、兵庫県美方郡新温泉町の但馬牛飼養農家は99戸で、飼育頭数は繁殖牛が735頭、肥育牛は150頭弱(美方郡域内では全部で2000頭強)です。その昔、繁殖牛だけでも2.100頭以上いました。かつて農業経営にかかせない 農機役の牛として、また、農家経済の大きな収入源として1農家1頭を飼育しておりましたが、時代の変化で、 いまは3分の1近くに減少しました。しかし、今でも血統の保存のため新温泉町民は様々な努力を続けております。
その中でも“閉鎖育種”の伝統を100年以上受け継いて、地域的な純血を守っている美方郡と美方産但馬牛に対するこだわりは、畜産業者の間では根強く一般的になっております。

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